大判例

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最高裁判所第三小法廷 昭和57年(オ)1127号 判決 1988年1月19日

上告人

池本美穂

上告人兼右美穂法定代理人親権者

池本和紀

上告人兼右美穂法定代理人親権者

池本俊子

右三名訴訟代理人弁護士

前野宗俊

三浦久

吉野高幸

高木健康

中尾晴一

住田定夫

配川寿好

臼井俊紀

横光幸雄

尾崎英弥

安部千春

田邊匡彦

諫山博

小泉幸夫

小島肇

井手豊継

内田省司

津田聡夫

林田賢一

椛島敏雄

宮原貞喜

田中久敏

田中利美

佐藤久

清水光康

伊藤博史

杉山繁二郎

大橋昭夫

沢口嘉代子

徳住堅治

大熊政一

滝井繁男

八代紀彦

佐伯照道

田原睦夫

水野武夫

平山正和

吉岡一彦

谷池洋

細川喜子雄

藤井勲

山本彼一郎

稲村五男

浅岡美恵

中尾誠

若松芳也

戸倉晴美

夏目文夫

伊藤香保

辻晶子

山崎満幾美

小林広夫

本田卓禾

小沢秀造

藤本哲也

葉山水樹

角南俊輔

古瀬駿介

太田宗男

川端和治

尾崎純理

丸田哲彦

吉川孝三郎

坂本隆

木内俊夫

藤森勝年

大川育子

仲田信範

近藤勝

横田幸雄

伊藤まゆ

被上告人

北九州市

右代表者病院事業管理者病院局長

福野直

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人らの負担とする。

理由

上告代理人前野宗俊、同三浦久、同吉野高幸、同高木健康、同中尾晴一、同住田定夫、同配川寿好、同臼井俊紀、同横光幸雄、同尾崎英弥、同安部千春、同田邊匡彦、同諫山博、同小泉幸夫、同小島肇、同井手豊継、同内田省司、同津田聡夫、同林田賢一、同椛島敏雄、同宮原貞喜、同田中久敏、同田中利美の上告理由第一点について

上告人池本美穂の出生した昭和四七年当時、未熟児網膜症(以下「本症」という。)に対する治療法として光凝固法を実施することがいまだいわゆる臨床医学の実践における医療水準にまで達していたものとはいえないとした原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、採用することができない。

同第二点及び第三点について

人の生命及び健康を管理すべき業務に従事する者は、その業務の性質に照らし、実験上必要とされる最善の注意義務を要求されるのであるが(最高裁昭和三一年(オ)第一〇六五号同三六年二月一六日第一小法廷判決・民集一五巻二号二四四頁参照)、右注意義務の基準となるべきものは、一般的には診療当時のいわゆる臨床医学の実践における医療水準であるというべきところ(最高裁昭和五四年(オ)第一三八六号同五七年三月三〇日第三小法廷判決・裁判集民事一三五号五六三頁参照)、上告人池本美穂の出生した昭和四七年当時、本症に対する治療法として光凝固法を実施することが右医療水準にまで達していたといえないことは前示のとおりであるから、原審の適法に確定した事実関係のもとにおいて、小児科医今井義治及び眼科医原駿に過失があつたものとはいえないとしたうえ、被上告人の不法行為責任を認めることはできないとした原審の判断は正当として是認することができる。今井医師及び原医師の有していた本症に対する治療法としての光凝固法に関する知識について、上告人らが原審において主張するところは、具体性に乏しく、右の結論を左右するに足りるものではない。原判決に所論の違法はなく、論旨は採用することができない。

よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官伊藤正己の補足意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

裁判官伊藤正己の補足意見は、次のとおりである。

私も診療行為にあたる医師の注意義務の基準となるべきものは、一般的には、診療当時の「いわゆる臨床医学の実践における医療水準」(以下、単に「医療水準」という。)であると解するものであるが、この医療水準をどう考えるかについて若干補足しておきたい。

人の生命及び健康を管理すべき業務に従事する医師は、その業務の性質に照らし、実験上必要とされる最善の義務を要求されるのであつて(最高裁昭和三一年(オ)第一〇六五号同三六年二月一六日第一小法廷判決・民集一五巻二号二四四頁参照)、右の義務を果たすためには、絶えず研さんし、新しい治療法についてもその知識を得る努力をする義務(以下「研さん義務」という。)を負つているものと解すべきである。もとより、医師は、必ずしもすべての診療を自ら行う必要はないが、自ら適切な診療をすることができないときには、患者に対して適当な診療機関に転医すべき旨を説明し、勧告すれば足りる場合があり、また、そうする義務(以下「転医勧告義務」という。)を負う場合も考えられるのである。医療水準は、医師の注意義務の基準となるものであるから、平均的医師が現に行つている医療慣行とでもいうべきものとは異なるものであり、専門家としての相応の能力を備えた医師が研さん義務を尽くし、転医勧告義務をも前提とした場合に達せられるあるべき水準として考えられなければならない。そして、このような医療水準は、特定の疾病に対する診療に当たつた医師の注意義務の基準とされるものであるから、当該医師の置かれた諸条件、例えば、当該医師の専門分野、当該医師の診療活動の場が大学病院等の研究・診療機関であるのか、それとも総合病院、専門病院、一般診療機関などのうちのいずれであるのかという診療機関の性格、当該診療機関の存在する地域における医療に関する地域的特性等を考慮して判断されるべきものである。右のようにいうべきものとすれば、特定の疾病に対する有効かつ安全な新しい治療法が一般に普及して行く過程において、右治療法を施す義務ないしは右治療法を施すことを前提とした措置を講ずる義務又は転医勧告義務の存否が問題とされる場合には、例えば大学病院等の研究・診療機関においては右治療法を施すこと等が義務とされても、一般の診療機関においては自ら右治療法を施すこと等が義務とされないのはもとより、右治療法を施すために大学病院等への転医を勧告することも義務とはされない段階など、診療機関の性格等前記の諸条件に応じて種々の段階を想定することができるのであつて、前記の諸条件を考慮することなく、右治療法を施すこと等が義務であるか否かを一律に決することはできないものといわざるをえない。この意味において、医療水準は、全国一律に絶対的な基準として考えるべきものではなく、前記の諸条件に応じた相対的な基準として考えるべきものである。

これを本件についてみるに、未熟児網膜症(以下「本症」という。)に対して光凝固法を実施することないし光凝固法を実施することを前提とした措置を講ずること又は光凝固法を実施することを前提として転医を勧告することが全国的にみて医療水準にまで達したといえる段階に至るまでには、種々の段階があることはいまさらいうまでもないところである。全国的にみて医療水準に達したといえる段階に至らなければ、本症に対する治療法としての光凝固法について知見を有しない眼科、小児科、産婦人科等未熟児の診療に関係を有する専門分野の医師のすべてについて責任を問われないと解するならば、本症に罹患した場合には失明という重大な結果に至ることが予想されるだけに、余りにも狭すぎる解釈というべきである。前述したところによれば、右のような段階に至る前の段階においても、眼科等特定の専門分野の、あるいは特定の性格、機能を有する診療機関の、更には特定の地域の医師等の医療水準に照らして、本症に対して光凝固法を実施し若しくはこれを実施することを前提とした措置を講じ、あるいは患者等に対して適当な診療機関への転医を勧告すること等が要求される場合もありうるのである。その場合に、当該特定の専門分野、診療機関又は地域等の臨床医が、光凝固法について知見を有しないため適切な措置を講じなかつたときには、研さん義務を怠つたものとして法的責任を問われることになるというべきである。原判決は右の観点からの検討が必ずしも十分ではないといわなければならない。しかし、原判決挙示の証拠関係を検討してみると、右の観点からしても、上告人池本美穂が出生した当時の北九州市における八幡病院のような総合病院の眼科医又は小児科医にとつて、本症に対する治療法として光凝固法を実施することが医療水準にまで達していたとはいえないとすることも首肯しえないものではないので、結局、原判決の結論は是認することができるものというべきである。

(裁判長裁判官坂上壽夫 裁判官伊藤正己 裁判官安岡満彦 裁判官長島敦)

上告代理人前野宗俊、同三浦久、同吉野高幸、同高木健康、同中尾晴一、同住田定夫、同配川寿好、同臼井俊紀、同横光幸雄、同尾崎英弥、同安部千春、同田邊匡彦、同諫山博、同小泉幸夫、同小島肇、同井手豊継、同内田省司、同津田聡夫、同林田賢一、同椛島敏雄、同宮原貞喜、同田中久敏、同田中利美の上告理由

序論 本件事案の概要

最初に本件上告理由の基礎となる事実関係と争点、及びそれに関する一審および二審各判決の概要について、簡単に記述しておくこととする。

一、事実

一審、二審の各判決の認定したところに従つて、本件事案の事実関係の骨子を整理すると次のとおりである。

(一) 未熟児網膜症の歴史的背景、臨床経過、発生原因

1 歴史的背景

① 本症は、一九四二年アメリカのテリーが水晶体の後部に黄白色の組織塊が未熟児で生れた乳児に認められたことを報告し、のちにこれに retrolental fibro-plasia(R.L.F)なる名称をつけたことに始まる。わが国では水晶体後部線維増殖症などの訳語が従来使用されてきたが、昭和四一年国立小児病院眼科医師植村恭夫らはソースビイの提案に基づき、水晶体後部線維増殖症なる名称はオーエンス分類による本症瘢痕期ⅣないしⅤ度のもののみを示すもので、活動期より瘢痕期にわたる本症の全体を捉えるには、未熟児網膜症あるいは未熟網膜症なる名称が適切であると主張し、その後わが国では未熟児網膜症なる名称が一般に用いられてきた。

② 本症は、一九四〇年代の後半より一九五〇年代の前半にかけて未熟児に対し酸素を自由に使用していた時代にアメリカ等で多発し、罹患した乳児の三〇パーセントが失明し乳児失明の原因の第一位を占めた。そこで本症の原因に対する追及が始まり種々の要因があげられた。一九五一年キャンベルは、本症の発生が未熟児に対する酸素投与期間と関連して増加する事実を報告し、その後疫学的臨床的実験的に酸素投与との関連を中心とした大がかりな研究が行われ、その結果酸素濃度を下げ投与期間を短縮することが本症の発生頻度を明らかに減少させるという事実が、動物でも臨床的に立証された。これに加え、一九五四年パッツらは酸素療法の期間が本症の発生頻度と重症度に関連することを明らかにした。これらに伴つて一九五四年アメリカ眼科学会のR・L・Fシンポジウムにおいて「①未熟児に対する常例的な酸素投与の中止。②乳児がチアノーゼあるいは呼吸障害の兆候を示すときのみに酸素を使用する。③呼吸障害がとれたら直ちに酸素投与は中止する。」という勧告がなされ、これにより酸素の投与は厳しく制限され、本症の発生頻度は劇的に減少した。しかし一九六〇年アベリー、オッペンハイムは、酸素を自由に使用していた一九四四ないし四八年に比べて、酸素供給を厳しく制限するようになつた一九五四ないし五八年には、特発性呼吸窮迫症候群による未熟児の死亡が明らかに増加していることを報告した。また、網膜症の減少に反比例して脳性麻痺の発生頻度と重症度の増加がもたらされた。そこでそれ以後特発性呼吸窮迫症候群には高濃度の酸素投与が行われるよう酸素療法に変革が起こり、一九六七年パッツは、これに伴つて再び本症が増加する危険を指摘した。このような状勢の中で一九六七年アメリカの国立失明予防協会主催の「未熟児に対する酸素療法を検討する会議」が小児科医・眼科医、生理学者、病理学者を集めて開かれ、酸素療法を受けた未熟児はすべて眼科医が検査すべきこと、および未熟児は生後二才までは定期的に眼の検査を受ける必要性が強調された。

③ わが国において未熟児施設が普及し始めたのは、欧米諸国において高濃度の酸素療法のため多数の失明の犠牲者がでた結果、厳重な酸素の使用制限にふみきつた一九五四年(昭和二九年)以後のことである。そのためわが国は未熟児網膜症の多発は免れたが、その反面本症に対する関心が薄く眼科医小児科医の間でも未熟児網膜症は既に過去の疾患であると考えられがちであつた。このため未熟児網膜症を実際に観察したことのある眼科医は少なく、未熟児網膜症の実態は殆んど知られていないので、しばしば誤診されがちであつた。

2 本症の臨床経過

① 本症の発症時期は、文献的には生後非常に早い例から五ケ月という例まであるが、大部分は生後三ないし八週間に発症する。在胎週数を延長して三〇週程度で発症することが多いといわれ在胎週数の長いものほど早く短いものほど遅く発症する傾向がある。本症は酸素療法を行つているうちに発症することは稀で、普通は中止してから起こる。活動期の期間は二ケ月から一年以上にわたるものもありさまざまである。

② 臨床経過は、欧米の学者らによつて分類が試みられているが、従来わが国で最も多く使用されているオーエンスの分類(一九五五年発表)によると、臨床経過は活動期、回復期(寛解期)、瘢痕期に大別され、その詳細は次のとおりである。

a 活動期 Ⅰ期(血管期)、Ⅱ期(網膜期)、Ⅲ期(初期増殖期)、Ⅳ期(中等度増殖期)、Ⅴ期(高度増殖期)Ⅰ期においては、網膜血管の迂曲怒張が特徴的であり、網膜周辺浮腫、血管新生がみられる。Ⅱ期では硝子体混濁が始まり、周辺網膜に限局性灰白色の隆起が現われ、出血もみられる。Ⅲ期に入ると、限局性の網膜隆起部の血管から血管発芽が起こり、血管新生の成長が増殖性網膜炎の形で硝子体内へ突出し、周辺網膜に限局性の網膜剥離を起こす。更にⅣ期、Ⅴ期と進み高度増殖期は、本症に最も活動的な時期で網膜全剥離を起こしたり、時には、眼内に大量の出血を生じ硝子体腔をみたすこともある。

b 回復期

c 瘢痕期 程度に応じて、次のとおり五段階に分類される。

Ⅰ度 眼底蒼白、血管狭細、軽度の色素沈着などを示す小変化

Ⅱ度 乳頭変形

Ⅲ度 網膜の皺襞形成

Ⅳ度 不完全水晶体後部組織塊

Ⅴ度 完全水晶体後部組織塊

③ 最近に至り、眼底検査方法の発達、眼底写真撮影の進歩により、眼底病変の精度の情報が得られるようになり、後記の光凝固の適期に関する問題点を整理するため、また臨床経過、予後の点から、従来の分類法にあてはまらない経過を辿り網膜剥離に至る型の存在が明らかになつたことから、植村恭夫医師を主任研究者とする厚生省研究班の報告した「未熟児網膜症の診断および治療基準に関する研究」(昭和五〇年三月)の中で、左記の如き新しい分類法が提唱された。

ア 臨床経過、予後の点より未熟児網膜症をⅠ型、Ⅱ型に大別する。Ⅰ型は主として耳側周辺に増殖性変化を起こし、検眼鏡的に血管新生、境界線形成、硝子体内に滲出、増殖性変化を示し、牽引性剥離と段階的に進行する比較的緩徐な経過を辿るものであり、自然治癒傾向の強い型である。Ⅱ型は、主として極小低出生体重児にみられ、未熟性の強い眼に発症し、血管新生が後極より耳側のみならず鼻側にも出現し、それより周辺の無血管帯が広いものであるが、ヘイジー(hazy)のためにこの無血管帯が不明瞭なことも多い。後極部の血管の迂曲怒張も初期よりみられる。Ⅰ型と異なり段階的な進行経過をとることが少なく、強い滲出傾向を伴い比較的速い経過で網膜剥離を起こすことが多く、自然治癒傾向の少ない予後不良型のものをいう。

イ 各型の臨床経過は以下のとおりである。

(1) Ⅰ型

a Ⅰ期(血管新生期)

網膜周辺、殊に耳側周辺部に血管新生が出現し、それより周辺部は無血管帯領域で蒼白にみえる。後極部には変化がないか、軽度の血管迂曲怒張を認める。

b Ⅱ期(境界線形成期)

網膜周辺殊に耳側周辺部に血管新生領域とそれより周辺の無血管帯領域の境界部に境界線が明瞭に認められる。後極部には血管の迂曲怒張を認める。

c Ⅲ期(硝子体内滲出と増殖期)

硝子体内への滲出と血管およびその支持組織の増殖が検眼鏡的に認められる時期であり、後極部にも血管の迂曲怒張を認める。硝子体出血を認めることもある。

d Ⅳ期(網膜剥離期)

明らかな牽引性剥離が認められる時期をいう。耳側の限局性剥離から、全周剥離まで範囲に拘らず明らかな牽引剥離はこの時期に含まれる。

(2) Ⅱ型(激症型、ラッシュタイプ)

初発症状は、血管新生が後極よりに起こり、耳側のみならず鼻側にもみられることがあり、無血管領域は広くその領域はヘイジー・メディア(hazy media)でかくされていることが多い。後極部の血管の迂曲怒張も著明となり滲出性変化も強く起こり、Ⅰ型の如き段階的経過をとることも少なく、比較的急速に網膜剥離へと進む。

(3) 混合型

以上の分類の他に極めて少数ではあるが、Ⅰ、Ⅱ型の混合型ともいえる型がある。

④ 本症Ⅰ型の活動期病変は自然治癒傾向が強く、八五パーセントは自然寛解し、不可逆性変化を残さず治癒するといわれキンゼイらの報告ではⅢ期となつた場合でも約半数は瘢痕を残すことなく完全治癒する可能性があるといわれているが、Ⅱ型は瘢痕期移行率も高く視力障害率も高い。

植村恭夫らの調査報告によると、Ⅱ型の発症率は生下時体重九〇〇グラム以下では五〇パーセント、九〇〇ないし一、一〇〇グラムでは15.2パーセント、一、一〇〇ないし一、三〇〇グラムでは一、二パーセントであり、一、五〇〇グラム以上ではみられない。即ち、一、三〇〇グラム以下の極小低出生体重児に起こることは、網膜血管の未熟度が強く、酸素に対する感受性の最も強い時期のものにのみ発症することを示すものである。Ⅱ型の数は、一、五〇〇グラム以下の出生数が全未熟児の六、七パーセントに過ぎず、また、その約半数が死亡するため、Ⅰ型に比べ遙かに少ないものである。臨床的に遭遇するものの大部分(九三パーセント)はⅠ型と考えてよい、としている。

3 発生原因

① 人間の胎児の網膜は妊娠三ケ月ころまでは無血管の状態で四ケ月ころより血管形成が始まり、乳頭の硝子動脈より血管が周辺網膜に新生され、五、六ケ月より血流が認められる。血管はしだいに前方へのびてゆき、鋸状縁に向つて発育してゆく。血管の発達の程度は網膜の耳側と鼻側とで異なつており、鼻側では胎生三二週、八ケ月、耳側では三六週、九ケ月で鋸状縁に達する。従つて、妊娠七ケ月で出生したものは網膜の前方領域は無血管の状態で、出生後血管の発達が続く。このような発達途上にある網膜血管は、酸素に対して極めて敏感に反応することが知られている。そして、未熟児網膜症の病変は網膜血管の発達が遅れる耳側網膜に出現することが多い。このような未熟網膜に対する酸素の第一次的影響は、急激かつ完全な血管収縮で、これが永続すれば血管の閉塞を起こし、この部分の新陳代謝が妨げられ、第二次的に網膜の残余血管の増殖性変化が出現してくる。そして網膜周辺部では硝子体内部まで血管が増殖すると考えられている。この網膜血管は出生直後に、酸素に対して最も敏感に反応するもので、出生直後は短期間の酸素投与によつても、のちに本症を発生することがあるといわれている。そして、現在では、酸素濃度よりも動脈血の酸素分圧PO2(PaO2)に関係があるとされている。更に本症は、酸素が全く補給されなかつた未熟児にも発生するが、この場合の発生機序についてパッツは次のとおり考えている。つまり、出生して肺呼吸を始めると動脈血の酸素分圧PaO2は胎内にいた時より上昇する。一方、光刺激により網膜の代謝が亢進するため比較的酸素欠乏状態となる。もし、網膜血管の発育がまだ不充分で酸素に対する感受性が高ければ、本症が発生することになる、と。またアルファノらは、子宮内で酸素欠乏や貧血があれば生後のPaO2の上昇の程度は正常児と比べて相対的に大であり、これが未熟児網膜症の原因となる可能性があると推量している。奥山和男医師はこの点について、子宮内では在胎二七週の正常胎児のPaO2は三七mmHg程度であるが、空気中で呼吸している受胎後二八週の未熟児のPaO2は一〇〇mmHgに近づく。未熟な発達途上の網膜血管にとつては胎児期のPaO2値が生理的なものであり、一〇〇mmHg程度のPaO2値でも網膜障害が起こる可能性は否定できない、と述べている。

② 本症の発生原因、機序については、現在でも未解明の部分があるが、未熟な発達途上の網膜血管が胎内環境ではなく、胎外環境の下で成長して行く過程で発生する血管増殖性の病変であり、網膜の未熟性と胎内環境と胎外環境の差を構成する諸条件が本症発生の要因をなすものと一応考えられ、網膜の未熟性については、未熟度の強いものほど重症化の傾向が強く、アルファノは、網膜血管の酸素感受性には個人差があり、大気の酸素濃度である二〇パーセントにおいても感受性を示す網膜血管を有する群、二〇ないし四〇パーセントの濃度において網膜変化を起こす感受性を示す網膜血管系を有する群、四〇ないし一〇〇パーセントの濃度において網膜剥離まで進む変化をもたらす網膜血管を有する群の三群にわけており、植村医師は、これの差は網膜血管の未熟度の差によるものであるとしている。

③ 本症は、この網膜の未熟性を表わす最も重要な因子である生下時体重、在胎週数の小さいものほど発生しやすく、統計的には生下時体重一、六〇〇グラム(一、五〇〇グラムとする者もある)以下、在胎週数三二週以下のものに圧倒的に多いとする報告が多くなされている。もつとも大島医師は、重篤の網膜症が多いのは一、五〇〇グラム以下とは限らず、生下時体重一、五〇一ないし一、八〇〇グラムでも高度の網膜症が多いと報告している。

④ また奥山医師は、同じ程度のPaO2値に保たれても、RLFを発生するものと、しないものがあるが、これを説明するために二つの因子があげられる。一つは網膜の未熟性であつて網膜が高度に未熟であればPaO2が正常に近い値に保たれていても網膜変化が起こる可能性がある。最近極小未熟児の生存例が増加したが、これとともにRLFが増加するかも知れない。もう一つの因子は交換輸血である。未熟児の有するヘモグロビンの大部分は胎児ヘモグロビンであるが、交換輸血が行われれば成人ヘモグロビンに置換され、ヘモグロビンの酸素解離曲線に変化が起こることになる。胎児ヘモグロビンは成人ヘモグロビンよりも酸素に対する親和性が強いことを示す。交換輸血により成人ヘモグロビンが増加すれば、ある一定のPaO2で組織より多くの酸素を放出することになり、網膜障害が起こりやすくなるかも知れない。最近、交換輸血とRLFの発生に関係が認められたとの報告があり、RLF発生の促進因子として交換輸血を検討する余地がある。と述べている。

4 治療法

① かつては、薬物療法(ACTH、副腎皮質ホルモン等の投与)が行われていたが、現在ではその効果は否定的に解されむしろその副作用の方が問題視されている。

② 本症に対する治療法として現在最も有力視されているのは光凝固法および冷凍凝固法である。これは、進行しつつある網膜および血管を破壊して増殖傾向を阻止する方法であり、その治療の時期と方法を誤らなければ、本症に対する最善の治療法とされている。しかし、比較的急速に症状が進行する前記の激症型(ラッシュタイプ)の場合ではその適応時期を失することが多く、またその他の場合でも、右治療効果が絶対確実であるとはいい難く、治療後その未熟児が成長したのちに治療そのものによる悪影響の発現を心配する向きもあり全く問題がないわけではない。

③ 右光凝固法、冷凍凝固法のいずれも、本症の初期の段階(その具体的時期については多少見解の相違があるが、オーエンス活動期Ⅱ期の終わりかⅢ期の初めとされている。)で施行されなければ効果はないので、その早期発見のために定期的眼底検査が必要である。

(二) 上告人美穂の診療経過と本症罹患原因

① 上告人美穂は、昭和四七年一月三〇日中島医院において在胎期間三一週、生下時体重一、六七〇グラムで出生し、保育器に収容された後、同年二月二日午後八時一五分ころ、八幡病院に転院した。

② 八幡病院に入院した昭和四七年二月二日午後八時一五分ころの美穂の状態は、体重一、四一〇グラム、呼吸は規則正しく、口腔粘膜・頭部は浮腫状、胸骨部陥没で呼吸は深いがチアノーゼはなく、趾指の爪は長く、黄疸があり、低体温であつたので今井医師は突発的な事故を予防するため保育器に収容し毎分二リットルの割合で酸素の投与を指示したが、その後もチアノーゼや無呼吸発作がなかつたため、三日午後八時三〇分まで約一日間の投与で中止し、翌四日には黄疸の症状が強くなつてきたため二〇〇c.c.の交換輸血をしたところ、皮膚黄疸はやや軽減しその後新生児反射も異状を呈することなく軽快し、体重も順調に増加していつた。三月三一日から漸時器外環境に順応させるため、数時間づつ保育器外で保育し、四月四日以降五月一五日退院時まで完全に器外で保育した。

③ 美穂が完全に保育器から出る前日の同年四月三日の回診後、今井医師は眼科医原に対して「妊娠三一週で未熟児ですが眼科的には異常はないでしようか。生後五日目、交換輸血しています。」と記載した紹介状を書き、翌日小児科の看護婦が小児科のカルテとともに、原告美穂を眼科に連れて行き、その後四月一一日、五月九日にも原医師に眼底検査の依頼をしたが、いずれもその結果は今井医師に連絡がなかつた。

(二審判決は、一審判決の認定を越えて「眼科医師原駿は、右依頼に応じその都度、散瞳剥により散瞳させたうえ直像鏡を用いて美穂の眼底を検査したが、特段の異状所見を認めなかつた」と判示しているのは、後に述べるとおり採証法則を誤つたものである)

④ 五月一五日の退院の際、今井医師は、上告人美穂の両親に対し二週間後に乳児検診に来るように指示し、五月三〇日に美穂が検診に来た際、上告人俊子から、目に斜視の異常がないか尋ねられ、「眼科に診察を依頼しているが返事がないし、私も気になるので再度紹介状を書きましよう」と答え、二週間後に眼科に紹介状を書くので再度乳児検診に来るようにと指示し、六月一三日に眼科に対して二回目の紹介状を書き、それにより六月一三日、同月二七日、七月一一日、同月二五日と、上告人俊子らが美穂を八幡病院の眼科に連れていつたが、六月一三日、同月二七日の受診の結果は今井医師に対して報告されていない。

(二審判決は、この眼科受診についても「医師原駿は、前同様の方法により美穂の眼底を検査し、特段の異状を認めなかつた」と採証法則に反する認定を繰り返しているのである)

⑤ 美穂は、七月一一日来院し、眼科において受診した際、原医師は、美穂の左眼の眼底耳側周辺部に灰白色の混濁を認め左未熟児網膜症の疑いと診断したが、なお病状の経過を観察するため、再検査をなすこととし、小児科の今井医師に対し「左未熟児網膜症の疑、眼球動揺のため詳細不明、再検を期します」とはじめて連絡した。次いで、七月二五日、原医師は、受診のため来院した美穂の眼底を前同様の方法により検査し、右眼にも左眼同様の病変を認め、今井医師と協議のうえ、光凝固治療を依頼するため市立小倉病院に転医させることとした。

⑥ 小倉病院眼科医師栗本晋二は、七月二八日、美穂の眼底を検査し、両眼とも既に未熟児網膜症の瘢痕期に達しており、右が二度、左が三度の瘢痕の状態であると診断し、すでに光凝固治療の時期を逸しているものと認められたが、網膜剥離がさらに拡がるのを防止する目的で、光凝固を施術した。しかして、美穂の視力は両眼で0.02程度の失明同様の状態にあり回復の見込みはなく、視覚障害により一級の身体障害者となつている。

二、主要な争点と一審二審各判決の判断

(一) 医師の過失の判断基準

① 一審判決は医師の過失の判断基準として

「医院は、人の生命、身体の管理をするために医療行為という特殊で重要困難な職務に携わるものであるから、医療の専門家として、日々進展向上してゆく医学の業績を消化吸収することにより、ある疾患について、自己のおかれている状況下でその当時とりうる最高の医療行為が何であるかを正確に把握した上で、治療行為にあたるべき注意義務があることは多言を要しない。そして、右注意義務の程度ないし過失の有無の判断は、治療行為のなされた時点における医学水準を基準としてなされるべきであるが、ここでの医学水準は学界や研究室を経由した実践としての臨床医学における水準(医療水準)であるから、過失の認定にあたつては、まず当該治療行為の実践程度を重視し、その上で当該医師の専門分野およびその隣接分野における水準的知識、当該医師のおかれている社会的・経済的・地理的諸環境(診療機関が学術的中心地に近い大学病院であるか、国公立の総合病院であるか、普通病院であるか、個人開業医の診療所であるかなど)を相関的に考慮しなければならず、右の諸環境につきより優位の立場にある医師ほど、より高度の注意義務が要求されるべきであるのは、けだし当然のことといわなければならない」と判示して、本症の治療行為の実践程度を多くの文献等によつて探求し医療水準を認定する手法をとつた。

② これに対して、二審判決は

「医療従事者に課せられる注意義務の基準となるべきものは、診療当時のいわゆる臨床医学の実践における医療水準であることはいうまでもない。臨床医学も、学問として日々研究が進められて日進月歩に発展し、新規の治療法が開発されて行くものであるが、新規の治療法が論文発表されたことによりこれが直ちに新治療法として『臨床医学の実践における医療水準』となるものでないことは多言を要しない。新治療法として発表されたものについて、数多くの追試が行われ、遠隔成績の検討、自然経過との比較、治療効果と副作用の確認がなされ、学界レベルで一応正当なものとして認容された後、これが更に教育、普及を経て、臨床専門医のレベルで治療方法としてほぼ定着するに至ることによつて、初めて『臨床医学の実践における医療水準』として確立されるのである」と判示して、一審判決のように、現実にどのような治療行為がどの程度実践されているかを探求する手法ではなく、臨床医学としての形成過程―手続を履践充足したか否かを医療水準の基準としている。

③ 医師の過失の判断基準としては、臨床医学の実践における医療水準である点において、一審二審判決は共通であるが、医療水準の認定において、一審判決は現実の治療行為の実践程度の中に、それを求めたのに対し(いわば実体的方法とでもいうべきか)、二審判決は形成過程の終了(前記の対照でいえば手続的方法とでもいうべきか)に求めている違いがある。

(二) 昭和四七年一月当時の医療水準

① 昭和四七年一月当時における定期的眼底検査、光凝固法の実践程度について、一審判決は文献などによつてその実践状況を詳細に認定したうえで

「昭和四三年永田医師により光凝固法が本症に対して有効であつたとの報告がなされた以後において、各地の大学病院等で光凝固の追試がなされ、これが治療方法として採用されるようになると、その大学病院等の光凝固治療を利用できる各地方の病院等の臨床医が本症の重要性を認識して定期的眼底検査を依頼するようになり、急速に普及していつたものと認められる。

そして、永田医師は、昭和四三年四月に本症二症例に対し光凝固を行つた結果、本症の進行を頓挫せしめたことを報告し、昭和四五年五月に四症例を、同年一一月に更に六症例を追加発表し、その際、光凝固法は現在最も確実な治療法ということができる。現在光凝固装置は、相当数全国的に設備されている。これを各地区ごとのブロックにわけ、未熟児網膜症の治療のネットワークを作れば、本邦から未熟児網膜症による失明例を根絶することも夢ではない。必要なことは、眼科医、小児科医の熱意であり、行動力である。と述べ、関西医科大学上原医師は、昭和四六年四月に五症例に光凝固を行いその有効性を確認したと述べ、九州大学の大島医師が昭和四六年九月に二三例の、名鉄病院の田辺医師が昭和四六年一一月に二五例の、国立大村病院の本多医師が昭和四七年一月に一〇例の各光凝固施行例を紹介し、光凝固が適期になされれば効果があると報告しており、その他いくつかの施設においても昭和四七年一月当時までに光凝固の有効性を確認しており、それらの各病院、施設においては、右治療法の有効性を確認したあとは、本症に対する治療として採用しているものであり、昭和四七年一月当時においては、それらの先進的病院では光凝固とは治療法として確立し、これを中心として各地方の病院へ普及している段階であつたことが認められる。本症に対する光凝固による治療は、小児の失明という深刻な事態と直接関連していたため、これに対する社会的要請が先行し、その結果として、右の如く、試行、追試、遠隔成績の検討、自然経過との比較治療効果と副作用の確認とその教育、普及という医療の常道を踏まず、直接普及段階に入つたものであるといえる。

また、昭和四七年一月当時までに発表された前記(一)の各文献によれば、光凝固の適期または適応基準については、大部分は活動期Ⅲ期の初めとしており、Ⅲ期が更に進行してⅣ期になると光凝固が効を奏しないことは、文献の発表者の間で一致するところである。ただ一部には、Ⅱ期の終りまたはⅢ期の初めより少し早目に行うことを主張している者もいるが、これも経験上Ⅲ期から更に進むことが予測される事例について述べているのであつて、特に異なつた範ちゆうの見解ともみられず、この程度の見解の差があるからといつて光凝固が治療方法として採用できなかつたとは到底いえるものではない。もつとも、光凝固の瘢痕が将来及ぼす影響については、確かに当時においても明らかにはされてはいないし、この点については永田医師が最初光凝固法を発表した際にも、自ら指摘しており困難な問題ではある。しかしながら昭和四六年一一月の「現代医学」一九巻二号において、田辺医師は、永田医師が最初に試行した症例の未熟児は、目下四才で、0.9の視力を有し、格別の異常は認められない。今後とも経過観察が重要である。と報告しており、副作用の点が明確にされていないにしても、当時本症の変症例が各地で発症し、これが定期的眼底検査により発見されている状況にあり、適期を失すれば失明することは明らかとされており、しかもこれを阻止しうる唯一の方法が光凝固法であつたのであるから、副作用のあることが特に明らかにされていない限り、また前記のとおり四才までは正常の視力を有していることが報告されていたことも考慮すれば、治療方法として臨床上採用すべきものではなかつたとはいえない。更に、厚生省研究班が昭和五〇年に発表した本症の診断基準、治療基準は、当時行われていたそれらの最大公約数的なものを追認したに過ぎないものと認められ、それ以前に右診断基準、治療基準が存在しなかつたものではない」と判断したのに対し、

② 二審判決は、「本症に対する光凝固・冷凍凝固治療は、現在においてもなお今後の研究によつて解明されなければならない問題点が存するものであり、本件当時である昭和四七年においては、もとより、未だ先駆的研究者の間で実験的に試みられ、またその追試として行われていたに過ぎず、臨床専門医のレベルで治療法としてほぼ定着していたものということは到底できず、昭和五〇年に至り、前記厚生省研究班報告『未熟児網膜症の診断および治療基準に関する研究』が発表され、本症の診断、治療に関し一応の基準が提示されることによつて、ようやく、臨床専門医のレベルで治療法として定着し始めたものと認められる」とした。

(三) 原医師の過失

1 修得すべき平均的知識

一審判決は、原医師が閲読している雑誌、昭和四六年から未熟児の眼底検査を実施していた事実、被告市立小倉病院における倒像検眼鏡および光凝固装置の存在の事実等から、原医師の修得すべき知識を「①本症は未熟児のうち酸素不使用例にも発生することがあり、網膜周辺から発症する本症を早期に発見するためには倒像検眼鏡が必要であること、②生下時体重一、六〇〇グラム在胎週数三二週以下の未熟児に本症の発生重症化の傾向が強いこと、③光凝固は本症に対する唯一の有効な治療法で、施行時期は活動期Ⅲ期の初めが適期であり、Ⅳ期になると効を奏しないこと、④本症を早期に発見しこれによる失明を防ぐには、生後一ケ月前後から定期的な眼底検査を週に一回程度の割合で二ケ月間行うことが絶対不可欠であること」と認定したが、二審判決は、「本症は、極めて多様な病像を呈するなどのため、文献を参照するのみで本症を的確に診断することは不可能であつて、相当多数の症例を観察し訓練を受けるなどの特別の修練と経験とを積まなければ、その病変を正確に診断することが困難なものである」として修得すべき知識には何ら触れることなく「同医師は、昭和四六年ころから未熟児の眼底検診の依頼を受けるようになつたが、未熟児の眼底検査につき特に訓練を受けた経験はなかつた。同病院には眼底周辺部まで精密に検査しうる高性能の倒像鏡の備付がなかつたことから、同医師は、取扱いに習熟していた直像鏡を用いて未熟児の眼底検査を行つていた。同医師は、本件に至るまで本症に遭遇したことがなかつた」と設備と経験=技術的能力のないことを指摘するにとどまつている。

2 過失認定

そして、原医師の過失について、一審判決は、「原医師が総合病院の眼科医として昭和四七年四月当時修得すべきであつた本症に関する平均的知識の内容は前記の①ないし④掲記の程度のものと考えられるが、証人原駿の証言によれば、原医師は当時、今井医師から原告美穂が在胎三一週の未熟児であつたことの連絡を受けているにも拘らず、かかる未熟児に本症が発生し重症化しやすい傾向があることを認識せず、その眼底検査の方法についても本症を早期に発見するためには倒像検眼鏡が絶対不可欠であることを充分に認識していなかつたものと認められるので、原医師には、総合病院において未熟児保育医療に携わる眼科医の有すべき平均的知識に欠けるところがあつたものといわざるをえず、特に倒像検眼鏡の必要性についての知識が不充分であつたことは重大であり、このことが、ひいては前記の如き不充分な検眼につながつたものと考えられ、充分な眼底検査義務を怠つた過失があるものというべきである」と認定したのに対し、二審判決は、「当時の眼科医においては、本症に特別の関心のある極く少数の臨床医学研究者、眼科医のみが、自発的に修練を積み本症の診断に必要な技術を修得するという状態であつて、未熟児の眼底検査につき特に修練と経験を積んだ一般臨床眼科医は皆無に等しかつた。したがつて、昭和四七年一月当時においては、未熟児の眼底検査を行う訓練を受けていない眼科医としては、直像鏡による検査を行つていたことはやむをえないものであつた」、「昭和四七年一月当時における臨床眼科医の医療技術の一般的水準に照らし、未熟児の眼底検査を行う訓練を受けたことがなく、しかも、本症に初めて遭遇した原医師としては、本症の病変を発見しえなかつたのもやむをえなかつたものであつて、この点に注意義務の懈怠があつたものということはできないものと認められる」としている。

第一点 本件当時の医療水準に関する判断の法令違反および理由不備ないし齟齬審理不尽

一、原判決の論旨と未熟児網膜症判例の中での特異性

原判決は、医師の過失の内容をなす医療水準について「本症に対する光凝固・冷凍凝固治療は、現在においてもなお今後の研究によつて解明されなければならない問題点が存するものであり、本件当時である昭和四七年においては、もとより、未だ先駆的研究者の間で実験的に試みられ、またその追試として行われていたに過ぎず、臨床専門医のレベルで治療法としてほぼ定着していたものということは到底できず、昭和五〇年に至り前記厚生省研究班報告『未熟児網膜症の診断および治療基準に関する研究』が発表され、本症の診断、治療に関し一応の基準が提示されることによつて、ようやく、臨床専門医のレベルで治療法として定着し始めたものと認められる」と認定した。

本症についての判例は、昭和四九年三月二五日の高山赤十字病院判決を嚆矢として別表のとおり並んでいるが、その中にあつて、原判決が①医療水準確立の前提として、当該治療方法(光凝固法)が確立する為の原則論的形成過程の履践がなされたか否かを問い②その認定の基本的論拠を昭和五〇年の厚生省研究班報告「未熟児網膜症の診断および治療基準に関する研究」にもつぱら求め、その結果、③光凝固法の定着普及を昭和五〇年以降と判断した点、極めて特異な判例といえる。

特に、別表の判例からも明らかなとおり、光凝固法の定着普及の時点は、昭和四六・七年頃としてほぼ確立したともいえる状況であり、これを踏まえて別表25の関西医科大学病院未熟児網膜症第一審判決では「光凝固法は、それまで治療法のなかつた本症に対する画期的な治療法として開発され、昭和四七年頃には有効性が確認されて医療機関に普及するようになつた」とさえ判示されていたのであつた。

二、原判決の医療水準認定方法の誤り

原判決は、治療法が確立し、医療水準になるためには、その前提として①試行②追試③遠隔成績の検討④自然経過との比較⑤治療効果と副作用の確認⑥その教育、普及の形成過程の履践充足を重要必須の要件としている。

しかし、右形成過程の履践は一段的には妥当性があるといえても逆に、右過程をすべて経ていないから治療法が確立していないことは到底いえない。

治療法によつては、右形成過程の一部を必要としないこともまた、実施不可能な場合もありうるからである。

ことに光凝固法の場合、放置すれば失明という重大な事態に至る為に、光凝固法を施す集団と絶対に光凝固法を施さない集団とか、一眼だけに光凝固法を施し、他眼には光凝固法を施さない等の実験ないし検証手段による比較、検討は極めて困難であり、副作用の有無、確認といつても長期にわたる子供の成長の観察をまたざるを得ない実態に徴すれば、前記治療確立に至る原則論的過程を踏むことなく、確立普及に至つていたか否かは別個に問われざるを得ないものといえる。

特に、光凝固法を最初に適用するに至つた経過について、永田医師が「昭和四二年の一番最初の網膜症は実は私が最初に見ました。未熟児網膜症の活動期の重症例でした。それまでは、私自身、こういうふうな重症の例を見たことがありませんでした。眼底は見ておりましたが、発症はなかつたんです。それでこのちようど、私が見ました時には活動期病変のⅡになつておりました。それが毎週眼底検査をするごとに悪くなつて参りますし、そして、ステロイドの投与をいたしましたけれどもきかずにどんどん悪くなつてまいりまして、非常においつめられたわけです。なんとかしたいと考えまして、その時に光凝固治療をほかの病気で血管の増殖した例に応用して非常に効果をあげた経験がありました。それで、その血管の増殖代態を見ましてそれからもちろん文献も読んで、こういうふうな血管閉塞によつておこつた血管増殖にこの光凝固法がきくのではないかと想像したんです。しかし、これはもちろん新しい治療でございますし、赤んぼうの網膜を焼くこと自体冒険でございましたので大分小児科の部長にも相談いたしましたし、それから当時は、全麻でないと出来ない状態にありましたので、全麻に関して麻酔科の部長とも相談いたしました。それで、そういう効果のわからない治療をやつてもよろしいですかということを両親に相談して、その上で許可を求めてそれじややつて下さいということでやつたんです」(乙第九九号証)との証言にみられるとおり、光凝固を本症に適応することの発見の経過からして、本症に対する光凝固術は、単なる奇想天外なアイデアとして想いつかれたものではなく、一定の科学性、合理性を当初からもつていたことは注目されるべきことであつた。なぜなら、光凝固法そのものは、昭和四〇年代初めにおいてすでにその装置の普及が著しく臨床的応用も日々新たに適応範囲を広げていたのであり、網膜剥離およびその前段階をなす諸変化に対してはもとより、広く各種の網膜血管病変に対しても画期的な治療方法として活躍して、その合理性、科学性は既に確証されていたものであつたからであつた(乙第六三号証、乙第九九号証、乙第二三号証)。

まさに昭和四一年当時は光凝固法の発展期であり(乙第九九号証)、確定した既存の原理を本症に応用するというものであつたからである。すなわち、前記病気と類同の病勢の本症においても、光凝固により網膜血管の閉塞によつて起こる異常な血管の増殖を促進するような因子を破壊し、網血管の正常な発育を促すことを考えたのであつた。そこにはそのような論理性が当初から存在したのであつた。

永田は、昭和四二年の三月に、まず最初の本症に対する適用を行なつた。だからこそそのテストは大成功し、その児の視力は見事に1.0を維持した(乙第九九号証)。同年五月には二回目の適用が実行された。これらも完全に成功した。光凝固の適応が科学的根拠をもつことについて、塚原勇教授も「それまでにおとなの病気で未熟児網膜症と比較的共通した原因で網膜血管の新生をおこす網膜病変に対して光凝固法が有効であるという成積が蓄積されておつたわけです。ですから、同じ共通した原因でおこつてくるであろうと思われる未熟児網膜症に光凝固が有効であろうと想像しておつた」と証言されている(乙第二三号証)。

以上のとおり、治療方法としての光凝固法それ自体は、既に以前から存在したのであり、それ故光凝固法が新しい治療方法というのではなく、本症に適用するのがはじめてではあつたがその適用基礎には、もともと科学性と合理性があり、多くの医師を納得させるものを含んでいた特徴をもつものであつた。

それ故、一審判決の述べるとおり「本症に対する光凝固による治療は、小児の失明という深刻な事態を直接関連していたため、これに対する社会的要請が先行し、その結果として、……医療の常道を踏まず、直接普及段階に入つた」のも当然といえるのである。

このような実態の存在を無視して、原判決の如く前記治療確立の形成過程履践の要件のみで、本症における過失(医療水準)の判断基準をたて、かつ、その判断でとどまることは、本症について民法七〇九条の過失内容を誤る法令違反および治療確立の形成過程を履践せずとも光凝固法が臨床医学上治療として確立普及していたことを判断しなかつた審理不尽および理由不備である。

三、厚生省研究班報告の性格

原判決は、治療行為が医療水準として確立する要件を前記①ないし⑥の形成過程の履践に求めながら、突如として厚生省研究班報告以来、光凝固法が治療として確立し、普及しはじめたと論じている。

しかし、厚生省研究班は、従来の本症に関する研究報告には診断、治療面に統一を欠く点があり、社会的にも問題を起こすに至つたとして、昭和四九年厚生省が本症に関する主だつた研究者の協力により設けたにすぎず、この研究班で遠隔成績の検診や自然経過との比較や治療効果と副作用の確認の為の作業を実施したわけではない。被上告人も右研究班によつて、統一基準が決定され、それによつて臨床上採用されるべき基準がはじめて確立したと主張するにとどまつているのである。

現に、研究班の一員であつた大島医師も未熟児網膜症の研究者がそれぞれのデータをもち寄つて、ディスカッションをし最後に集大成して、新しいⅠ期等の定義づけ等の統一基準を作定し行つていつた(原審第八回大島証言一四二ないし一四四項)と述べているし、植村医師の証言(乙第一二六号証)もスライドを持ち寄つて、Ⅰ期はどうか、Ⅱ期はどうかということで意見統一し、統一できないところは注を加えて作定したというのである。

従つて、原判決は、前記①ないし⑤の形成過程の履践を実施したわけではない厚生省研究班報告をもつて、はじめて普及段階に入つたと認定したことは明らかに自ら設定した前提との間で矛盾をもち理由の不備ないし齟齬があるものといわざるをえない。

なお、右研究班の統一基準は、いわゆるI型の未熟児網膜症については、一審判決の認定するとおり、当時実施されていた診断・治療の最大公約数的なものを追認したものである。

例えば、統一基準と大島医師の分類の違いについては、第五期がなくなり、四期の初期が三期に含まれるようになつただけであり、(原審第八回証言一三八ないし一四〇項)、その大島医師と永田医師の診断基準の違いというものも、三期と四期についての基準がわずかに違う(同一三七項)というものでそれまでの研究者の分類が否定されたというものではない。

まさに、作業過程そして、その結果からいつて、厚生省研究班報告とは従来の各研究者の診断基準および治療基準の最大公約数を定めたものといいうる。

そうでなければ、大島医師が、右報告の統一基準作成以前に昭和四七年六月発行の「眼科」一四巻六号(乙第三四号証)に定期的眼底検査を全国的に普及させる必要があると述べていることの理解ができないであろう。まさに臨床上の診療基準が各研究者の間で若干の違いがあつたとしても昭和四七年当時には確立されていたというべきである。

そして、特に重要なことは光凝固を実施すべき時期について否定ないし修正を余儀なくされた立場は全くないということである。

一審判決の認定しているように、「昭和四七年一月当時までに発表された……各文献によれば、光凝固の適期または適応基準については、大部分は活動期Ⅲ期の初めとしており、Ⅲ期が更に進行してⅣ期になると光凝固が効を奏しないことは、文献の発表者の間で一致するところである。ただ、一部には、Ⅱ期の終りまたはⅢ期の初めより少し早目に行うことを主張している者もいるが、これも経験上Ⅲ期から更に進むことが予測される事例について述べているのであつて、特に異なつた範ちゆうの見解ともみられず、この程度の見解の差があるからといつて光凝固が治療方法として採用できなかつたとは到底いえるものではない」即ち、統一基準による診断によらず、それ以前に使用されていたいかなる診断基準によつても光凝固を実施すべき適期を徒過してしまうことはないのである。

このことは、臨床=治療面からいつて、統一基準がなければ未熟児網膜症の治療にあたれなかつたという関係にないことを意味する。

四、昭和四七年一月当時の医療水準

一審判決は、昭和四七年一月頃の医療水準について「昭和四三年永田医師により光凝固法が本症に対して有効であつたとの報告がなされた以後において、各地の大学病院等で光凝固の追試がなされ、これが治療方法として採用されるようになると、その大学病院等の光凝固治療を利用できる各地方の病院等の臨床医が本症の重要性を認識して定期的眼底検査を依頼するようになり、急速に普及していつたものと認められる。

そして、永田医師は、昭和四三年四月に本症二症例に対し光凝固を行つた結果、本症の進行を頓挫せしめたことを報告し、昭和四五年五月に四症例を、同年一一月に更に六症例を追加発表し、その際、光凝固法は現在最も確実な治療法ということができる。現在光凝固装置は、相当数全国的に設備されている。これを各地区ごとのブロックにわけ、未熟児網膜症の治療のネットワークを作れば、本邦から未熟児網膜症による失明例を根絶することも夢ではない。必要なことは、眼科医、小児科医の熱意であり、行動力である。と述べ、関西医科大学上原医師は昭和四六年四月に五症例に光凝固を行いその有効性を確認したと述べ、九州大学の大島医師が昭和四六年九月に二三例の、名鉄病院の田辺医師が昭和四六年一一月に二五例の、国立大村病院の本多医師が昭和四七年一月に一〇例の各光凝固施行例を紹介し、光凝固が適期になされれば効果があると報告しており、その他のいくつかの施設においても昭和四七年一月当時までに光凝固の有効性を確認しており、それらの各病院、施設においては、右療法の有効性を確認したあとは、本症に対する治療として採用しているものであり、昭和四七年一月当時においてはそれらの先進的病院では光凝固は治療法として確立し、これを中心として各地方の病院へ普及している段階であつたことが認められる。」と認定したが、これらの認定は次に述べるような普及の全国的実態および北九州の実態からしても至極当然であつた。

(一) 昭和四七年当時の全国各地の病院における光凝固の普及状況

① 県立広島病院の野間昌博、武富研吾、広大の石田尚史らは昭和四五年一月より昭和四六年八月中旬まで県立広島病院に収容し観察しえた未熟児八三例のうち一二例に光凝固を加えた、使用装置は西独カールアイス社の光凝固装置で手術時点での網膜症の程度はオーエンス活動期Ⅲ期のものが多く、大部分はオーエンス瘢痕期二度を示して治癒した(昭和四六年中国四国眼科学会における発表甲第四一号証)。

② 愛媛県立中央病院では昭和四五年五月から四六年九月までの間に収容した未熟児一一六名中の生存一〇三名に一一例の本症がみられ、うち二例に光凝固を行なつた(徳島大学に紹介)がいずれも瘢痕期一度で治癒した(昭和四六年中国四国眼科学会における発表甲第四一号証)。

③ 鳥取大学医学部眼科学教室では、昭和四五年三月から四九年六月までの間、教室外来および鳥取大附属病院未熟児センターの患者五四例の未熟児の眼底検査(週一回)をなしたところ一四例に未熟児網膜症の発症が確認され、うち七眼に光凝固を行ない、五眼が症状固定もしくは治癒におもむいた(乙第一〇二号証)。

報告者の瀬戸川朝一らは、「一九六八年永田らが未熟児網膜症の治療法として光凝固術を導入して以来、本症に対する治療効果は画期的なものとなつた」。「著者らの場合活動期Ⅲaに光凝固術を施行した四眼はすべて治癒におもむいており、光凝固術は諸氏の主張どおり、活動期Ⅲの初期がもつとも適していると思われる」と述べている。

④ 名鉄病院の田辺吉彦、池間昌男医師らは、昭和四四年一月八日生、同四三年一一月一一日生、同四四年七月一四日生、同四四年八月二五日生、同四五年二月二六日生、同四五年四月一三日生等、多数の昭和四三年以降に出生して未熟児網膜症に罹患した未熟児に光凝固を施行した。昭和四四年三月から昭和四六年七月迄の間二三例四六眼に光凝固を実施し、オーエンスのⅢ期までに行なつた二〇例全例に著効をみた。同氏らは「この成績及び光凝固の作用機転から、オーエンスの活動期Ⅲ期の初期迄に光凝固を行なえばほぼ確実に治癒されることができる」と述べられている(乙第二二号証)。なお、この中には、他院から紹介されてきたものが、圧倒的多数の二〇例であつた(同前一四頁右欄)。

⑤ 兵庫県立病院では、昭和四五年五月以降四六年八月までに未熟児一〇八名の眼底検査を行ない、網膜活動期Ⅱ期以上に進行をきたした症例一六名のうち一〇名に光凝固を施行し、適期に施行した八例は成功するという満足すべき結果が得られた(甲第一九号証)。

⑥ 九大付属病院および国立福岡中央病院では、昭和四五年一月一日から四五年末迄の一年間に二三例の未熟児網膜症に対し光凝固を施行し、活動期Ⅳ期の二例三蚊には著効は得られなかつたが、Ⅳ期の初めまたはⅡ期の終りの病変を呈したものでは「著効を奏した」(乙第四〇号証)。

⑦ 関西医大では、塚原勇教授が昭和四四年一一月から本症に対し光凝固を用いた(乙第二三号証)。この患者は他病院からの紹介であつた(同前)。塚原教授は、昭和四二年の秋の学会における永田の発表で、本症に光凝固の適用が可能であることを知つたのであつた(同前)。関西医大では、以来昭和四八年の三月までに実に多くの四五例にものぼるケースに光凝固を行なつた(同前)。塚原らは、昭和四五年秋の学会で、その時点までに行なつた光凝固施術(当院二例、他院三例)の結果「光凝固は適当な時期に行なえば、永田の提唱したように病勢進展阻止に極めて有効である」と発表した(同前)。

⑧ 国立大村病院では、昭和四五年七月一日より昭和四六年七月三〇日まで同病院未熟児センターで、眼科的に京大式倒像鏡により定期的眼底精密検査を受けたものは延べ一二〇例で、そのうち正常の未熟児の眼底と異なり網膜周辺部の混濁が強過ぎるとか、あるいは無血管帯が正常より広過ぎるといつたような将来未網症になる危険がある眼底所見を呈した例は三〇例二五パーセントで、そのうち一〇例が進行して凝固を必要とした(甲第一五号証)。

⑨ 徳島大学(甲第四一号証)

昭和四五年には光凝固を実施している。

⑩ 東京・神奈川地方

昭和四八年ではあるが、東京・神奈川地方では、少なくとも一七の施設で光凝固法が実施されるに至つている(乙第一〇〇号証)。

(二) 昭和四七年当時全国各地から前記各病院に光凝固をうけさせるために本症患者が送りこまれてきていた事実

① 天理病院には、昭和四四年に四例、四五年には一二名もの本症患者が送りこまれ、光凝固をうけ、時間を失した二例を除きその余の全員が失明を免がれた(甲第一七号証第4表)。

② 昭和四四年から光凝固を本症に適応しだした名鉄病院では、同年から四六年七月迄に二三例ものケースに光凝固をなした。適期にやつた二〇例は全部成功したものであつたが前記二三例中、二〇例は他院から紹介され、転院させられてきたものであつた(乙第二二号証)。

③ 四五年から光凝固をやり出した関西医大では昭和四五年六月迄の間五例に光凝固をなしたがうち三例は他院からの紹介だつた(乙第二三号証)。

④ 昭和四五年三月から光凝固をなした鳥取大においても、付属病院未熟児センター外で生まれた外来の患者があつた(乙第一〇二号証)。その他徳島大学へも他院から本症患者が送りこまれ、光凝固の手術をうけた。このように昭和四五年当時光凝固をなす各地の病院に、その周辺地区はもとより、はるか遠方からも送りこまれ、光凝固がなされ時期が遅れてしまつた者を除き、その圧倒的多数が失明を防止されたのであつた。

(三) 昭和四七年初めの北九州地域の状況

① 九州大学では、昭和四五年から大島医師によつて光凝固法が実施され、後記のとおり九州各地そして山陰の病院からも未熟児が転送されていた。

大島医師は、昭和四六年九月発行の「日本眼科紀要」二二巻九号(乙第四〇号証)、四七年六月発行の「眼科」一四巻六号(乙第三四号証)において、光凝固法の有効性を確認し、一般的にはまだまだ少ないとして眼底検査の普及の必要性を述べている。

そして、昭和四七年三月には、大島医師は被上告人市立小倉病院において、未熟児網膜症についての講演をし、眼底検査の方法そして困難性についての具体的な話や適切な処置を求める内容の話を北九州の眼科医の前で行つたのである(原審第八回大島証言九〇項ないし一〇七項)。

この講演を受けた市立小倉病院の眼科医栗本医師は、これにより自信をもつて自ら光凝固の治療法実施に踏み切つたのであるから、大島医師の話は、本人が言う如く単に啓蒙的な話というだけではなく、後に出る論文にも述べられているとおり光凝固法の確立を前提に眼底検査の普及を期待したものであつたことは疑いない。

以前から、未熟児網膜症に関心をもち、あれこれの文献で研究し、実際に未熟児の眼底を検査していた眼科医にとつては、大島医師の示したスライドや眼底検査の困難性など、専門家として当然理解できるものであつた筈である。故に、各医師は自らの技術と照らし合わせて、検査に自信のないものは、遠慮を考えるし、栗本医師のようにより確信を抱く者もでよう。いずれにしても、出席した医師については未熟児に遭遇した場合に、如何に処置するかの医師としての医療義務は明確に与えられたといえる。

② しかも、被上告人経営の市立小倉病院においては、昭和四五年八月以降、極小児では二週間目から、普通の未熟児では三週間目から小児科医と眼科医の協力によつて定期的眼底検査が実施され(一審第一〇回栗本証言二九項、七五項ないし七七項)、当時の未熟児網膜症の知見に従い、倒像検眼鏡購入前は、目に糸をかけるなどして眼底周辺部の病像変化に注意を払い、昭和四六年の初め頃には倒像検眼鏡が購入され(同証言四二項ないし四五項)、そして光凝固器は昭和四六年五月一〇日に設備されていたのである(同五六ないし六〇項)。

そして、大島医師が昭和四七年三月初め頃、市立小倉病院において講演する以前は、眼底に異常を発見すると九大に対し患者の紹介をして万全を尽していたのである(一審第一一回栗本証言二〇四項ないし二〇八項)。

(四) 光凝固法は、昭和四七年当時治療法として確立普及している。

以上のとおり、昭和四七年一月当時は既に光凝固法は、治療法として確立し、これを中心として各地方の病院へ普及している段階であつたことはまぎれもない事実である。

大島医師自身も、昭和四七年六月発行の「眼科」(乙第三四号証)で定期的眼底検査を「一般的にはまだまだ少なく全国的に普及させる必要がある」と述べていることは、まさに、普及をはじめた段階だつたからにほかならないし、大島医師のもとには、聖マリア病院、市立小倉病院、久留米大学付属病院、久留米国立病院、鹿児島大学や地域的には北九州筑後そして総合病院も個人でも診療依頼がなされていた(原審第七回大島証言一二五項、第八回証言一一三項ないし一二〇項)。そして、当初は、未熟児だからという理由で、徐々に異常があるのではないかということで依頼がなされていた(同一二一項ないし一二六項)。

以上のことは、未熟児網膜症についての知見が広く普及し眼底検査の必要性が自覚され、診察ができない、倒像検眼鏡がない、あつても判断できない、そして光凝固装置がないという各病院から未熟児網膜症による失明を防ぐため陸続といたいけな未熟児が転医されていた実態を示すものである。しかも、これは大病院だけの特有の現象でないことも既に述べたところから明らかである。

昭和四六年の日本臨床眼科学会(甲第一三号証)において永田医師が「他医院からの紹介例でどうしても少し施行時期が遅れる傾向があります。全国の未熟児保育施設で是非眼科的管理が行われ、光凝固の設備ある病院へ時期を失わずに患児が送られるよう、全眼科医の先生方に御協力をお願いします」という呼びかけに応ずるが如くである。

後に、永田医師は、「……未熟児網膜症の光凝固による治療は、その最初から小児の失明という劇的且つ深刻な事態と直接関連していたためにこれに対する社会的要請が先行しその結果として試行・追試・遠隔成績の検討・自然経過との比較・治療効果と副作用の確認・治療法としての確立とその教育普及という医学の常道を踏まず、直接普及段階に入り、現在では不必要な軽症例にまで乱用される傾向にあるのではないかとの危倶が生れている。このような事態を招いた責任の一半は筆者にあると深く反省しているが、今回の報告が未熟児網膜症の治療を正常な軌道に戻すことにいささかでも役立ちうれば幸いである」(乙第六六号証「日本眼科学会雑誌」<宿題報告>第八〇巻一一号一八七頁)と述べるに至つたが仮りに、普及段階が医学の常軌を踏んでいないとしても、昭和四七年初めには、光凝固法と結びついた定期的眼底検査が普及していたことは右永田医師が述べるとおり否定し難い事実なのである。

そして、その普及されていた内容は、その後の未熟児網膜症の研究によつて、さまざまの問題が提起されてきたとはいえ、否定し去られてはいないのである。

五、小結

以上のとおり原判決は、本症の医療水準判断にあたつて過失内容の判断を誤る民法七〇九条の法令違反および昭和四七年一月当時、光凝固法が確立普及していた点についての審理不尽・理由の不備および右確立普及が昭和四七年ではなく昭和五〇年以降と判断した点について採証法則に違背する理由の不備および齟齬があり破棄されるべきである。

第二点 原医師の過失に関する判断の法令違反および理由の不備ないし齟齬

一、原判決の論旨と問題点

原判決は、原医師の過失を論ずるにつき、「本症は、極めて多様な病像を呈するなどのため、文献を参照するのみで本症を的確に診断することは不可能であつて、相当多数の症例を観察し訓練を受けるなどの特別の修練と経験とを積まなければ、その病変を正確に診断することが困難なものである」と知識と技術を前提にして、如何なる知識を有すべきかは論ずることなく、「同医師は、同病院において昭和四六年ころから未熟児の眼科検診の依頼を受けるようになつたが、未熟児の眼底検査につき特に訓練を受けた経験はなかつた。同病院には眼底周辺部まで精密に検査しうる高性能の倒像鏡の備付がなかつたことから、同医師は、取扱いに習熟していた直像鏡を用いて未熟児の眼底検査を行つていた。同医師は、本件に至るまで本症に遭遇したことがなかつた」と器材と経験のなさを説き、「未熟児の眼底検査を行う訓練を受けたことがなく、しかも、本症に初めて遭遇した原医師としては、本症の病変を発見しえなかつたのもやむをえなかつたものであつてこの点に注意義務の懈怠があつたということはできないものと認められる」と結論づけた。

この判断構造は、医療行為に知識と技術(器材、経験など)が必要なことを指摘することは正しいとしても、技術がなければ過失なしと短絡的に結びつけた点に誤りがある。器材がなければ、医師は器材のあるところに患者とともに出向くか(栗本医師は、国立病院の倒像検眼鏡を借用している)、転送するかするべきであり、経験がなければ、経験のある医師を呼ぶか紹介すべきことは論をまたないからである。

医療行為は、常に①所見の把握②診断③対応措置が連鎖的・流動的に展開されるものであり、医師はこれらをそれまでの知識形成の結果と臨床経験の程度によつて、判断処置していくのであるが、当然のことながら、自己の知識・経験・技術とその射程距離を疾病との間で測りながら及ばないところを文献や他医師との協議、場合によつては転医によつて補い最善の治療行為をなすべき義務がある。

医療行為の過失を考えるについては、右のような医療行為の実態にそくして考えていくべきである。

神戸地裁尼崎支部昭五六・六・一二判決も「患者の生命身体に重大な結果をもたらす疾病発生のおそれがあり、かつ、右疾病の診療行為が、自己の専門外であるか、または、自己の臨床経験ないし医療設備によつては困難な場合には、その旨を患者に説明して他の医師の診療を求めるか、あるいは、患者の一般状態、地理的、物理的条件等に格別の支障がない限り、他の専門医療機関へ転医させて、適切な診療行為を受けさせる等して、患者の生命身体への重大な結果の発生を防止するために最善の措置を講ずべき義務がある」と述べ、大阪地裁昭五五・一二・二〇判決も「医師は、依頼をうけた患者に対しては、まず自己の知識、技術、に基づき、専門分野における医療水準に従つた診察行為を自らなすべきであるけれども、近時医療水準が飛躍的に向上している一方で、それに伴ない事実上各医師の専門領域が細分化され、かつ、診察、治療に要する器具、施設、技術が高度化したため、生命および身体に重大な結果(生命の危険、重大な後遺症等)を生ずる可能性のある疾病を診断するかあるいはその疑いを抱いたが、当該医師(または、当該医師の属する医療機関)が自己の知識・臨床経験ないし右医療機関の医療設備によつては直ちに確定診断を下したうえ治療行為を施すことが困難な場合においては、その医師としては、他の医師との協議、文献の調査等によつて対応措置を施すだけでなく、患者の一般状態、地理的条件等に格別の支障のないかぎり、診断または疑診断した疾病について、他の熟練した専門医ないし高度の検査、治療施設を備えた他の医療機関へ、自己のなした診療経過を詳細に報告、説明したうえ遅滞なく診療を依頼する等して患者の回復しがたい重大な結果発生の避止のため最善の措置を講ずる義務があるものと言われなければならない」と同旨を述べているとおりである。

二、原医師の修得すべき知識

原医師は、昭和三六年頃から未熟児の眼底検査を行い、昭和四六年からは、小児科今井医師の依頼により被上告人八幡病院の未熟児の眼底検査を行つていたのである。

従つて、実際に未熟児の眼底検査を実施していた原医師は、未熟児に特有の本症について、当時の未熟児の定期的眼底検査の必要性等について研鑚をすべき義務があつたことはいうまでもない。

そうでなければ、小児科医今井医師の期待、ひいては被上告人八幡病院においては未熟児の眼底を含む全身管理が実施されているということで未熟児を転送する医師の期待、そして患者らの期待を裏切ることになろう。

そうすると、原医師が修得すべき知識は、一審判決が認定したとおり「①本症は未熟児のうち酸素不使用例にも発生することがあり、網膜周辺から発症する本症を早期に発見するためには倒像検眼鏡が必要であること、②生下時体重一、六〇〇グラム在胎週数三二週以下の未熟児に本症の発生重症化の傾向が強いこと、③光凝固は本症に対する唯一の有効な治療法で、施行時期は活動期Ⅲ期の初めが適期であり、Ⅳ期になる効を奏しないこと、④本症を早期に発見しこれによる失明を防ぐには、生後一ケ月後前から定期的な眼底検査を週に一回程度の割合で二ケ月間行うことが絶対不可欠であること」というべきである。

倒像検眼鏡の必要性についても一審判決が「永田医師は、昭和四三年四月発行の『臨床眼科』二二巻四号において、天理病院では、眼底検査に倒像検眼鏡を使用しており、本症の活動期症状の早期発見と経過観察には特に眼底周辺部の精細な検査が必須であり、乳頭周囲とか赤道部までの眼底検査で満足すべきではないこと、同年一〇月発行の『眼科』一〇巻一〇号において、本症活動期の病変は網膜血管の抹梢部特に耳側に多く始まるから未熟児の眼底検査には倒像検眼鏡が是非共必要であること、更に昭和四五年五月発行の『臨床眼科』二四巻五号では、生後一ケ月から三ケ月までの最も危険な時期における網膜周辺部の観察を完全に行うことが必要で、決して直像鏡のみによる眼底検査で満足してはならないこと、同一一月発行の『臨床眼科』二四巻一一号においても、活動期病変の早期発見と追跡には倒像検眼鏡が絶対要件であり、直像検査はほとんど不必要といつてよく、直像検査で本症の初期症状を早期に発見することは不可能でないにしても極めて困難であること、を強調しており、昭和四六年九月発行の『日本眼科紀要』二二巻九号によれば、九州大学医学部眼科教室での昭和四五年中の未熟児の眼底検査にはシエペンス型双眼倒像検眼、鏡東大式倒像検眼鏡、ボンノスコープ等を使用していたこと、昭和四七年一月発行の『眼科臨床医報』六六巻一号にも、国立大村病院で未熟児を東大式倒像鏡により観察したことが述べられており、現に小倉病院でも、前記認定の如く、倒像検眼鏡は昭和四六年二月ころ購入され定期的眼底検査に使用されており、それ以前は眼底検査の際は国立病院から倒像検眼鏡を借用していたような事実もあるのであるから、昭和四七年四月当時、少なくとも本件八幡病院程度の総合病院勤務の眼科医としては、本症発見のための眼底検査には倒像検眼鏡が必要であることは認識すべきであり、かつ、認識することができたと認めるのが相当である」と認定したとおりである。

原医師は、昭和三六年頃から未熟児の検査も行い(一審同証言二六〜二九項)、昭和四〇年頃には本症を知つており(同証言七項)昭和四六年頃から本症を文献で研究したり講演会にも出席するなど行い(同証言八、九)、眼科関係専門誌等も閲読し(同証言八一〜八四、一九〇項)、その結果、眼底検査の必要性(同証言一六、一七)、早期発見の重要性(同証言三五一項)を認識していた。

しかも、原医師は、昭和四七年三月には、大島医師の講演を聞いて(同証言三五二項)、眼底検査の必要性および困難性について充分な知見をもち、直像鏡による眼底検査の限界と、自己の技術上の限界も熟知した感であり、更には、光凝固法の有効な時期についても大島医師の講演の中でスライド等の使用をもつて充分な説明を受け、早期発見の重要性をあらためて自覚した筈である。

現実に、原医師が未熟児の眼底検査にたずさわつている以上、右認識を原医師に求めることは必要以上の義務を強制するとは到底いえない。

三、眼底検査(所見の把握)はなされていない。

医療行為は既に述べたとおり所見の把握からはじまる。未熟児網膜症の場合、それは眼底検査である。本件の眼底検査について、原判決は、昭和四七年四月四日、同月一一日、五月九日、六月一三日、同月二七日と実施され、そのときは「異常がなかつた」と認定するが、その認定の証拠は原医師の証言しかなく、カルテにも記載がなくその他信用性を担保する証拠は何一つない。

もともと、他科からの検査依頼であるから、検査結果はカルテに記載され、且つ回答が返される筈である。しかも、異常がないとしても、単に「異常なし」と記載されるのではなく、未熟児の眼底であるから、例えば「視神経乳頭の境界は解明で色調も正常、網膜は透明でよく透見できる、網膜血管は両側蛇行しており、左眼に極めて小さい、出血か?」とか「網膜血管は非常に強く蛇行し拡張している、色調は殆んど正常である、視神経乳頭は境界鮮明で正常の色調である」大阪地昭五五・一二・二〇判決、判タ四二九・七二)等視神経乳頭の境界や色調、網膜の状況・色調等の記載がなされるのである。

従つて、①美穂入院中の昭和四七年四月四日、四月一一日、五月九日には、八幡病院小児科の看護婦が退院後の六月一三日、同月二七日、七月一一日、同月二五日には上告人俊子らが、それぞれ美穂を検診のため同病院眼科に連れて行つているが、原医師の作成した健康保険診療録の表面に今井医師からの四月四日付、六月一三日付の紹介状が貼付してあり、右紹介状の御返事欄はいずれも切り離され、次頁の投薬、注射、処置、その他の診療の事実と題する表の中には、右月日を記載し、精密眼底検査の欄に点数を記載しているのみで、カルテは作成されていない(ただし、原医師は七月一一日には右二通の紹介状のうちの一通から切り離したと思われる御返事欄に「左未熟児網膜症の疑、眼球動揺のため、詳細不明、再検を期します。」と記載しこれを今井医師に交付している)こと、②原医師は、美穂の眼底検査のため直像鏡を使用したものであるが、本症は網膜周辺から発症するものであるから、直像鏡では、眼球を非常に圧迫するとか、糸を眼球にかけて引張つたりすれば、活動期Ⅱ期になればみえる可能性がなくはないが、活動期Ⅰ、Ⅱ期の病変を観察することは非常に困難であり、原医師は眼球に糸をかけて引張る等の操作をしたことはないこと、③原医師は、退院後の六月一三日、同月二七日の眼底検診では、美穂が嫌つて泣くため、眼球に傷がつくなどの理由で充分な眼底検査をしておらず、七月一一日にも眼球が動揺し詳細にはみられないとして、眼底の精査をあきらめていること、④原医師は、当時までに本症の病変を具体的に体験したことはなく、本症発見のための眼底検査は月一回でも足りると考えていたので、七月一一日の眼底検査では左眼に病変を認めながら、それ以前と同様に二週間後に来るよう指示しており、また、当時の美穂の眼底所見が本症の活動期、瘢痕期を含む臨床経過のうち、どの段階にあたるかにつき正確な認識は有していなかつたこと、⑤小倉病院の栗本医師は、簡易保険障害診断書兼入院証明書の本症の傷害発生年月日欄に、昭和四七年二月ころと記載し、その当時本症が発症したものと推定しており、また同医師は、日常診療では生後九〇日を過ぎれば、普通は光凝固を必要とする程度の重症例は発生しないと考えており、更に同医師の経験では生後六ケ月ころになつて本症が発生した例はないこと等に加えて⑥鑑定人大島健司の鑑定結果中に「生後六ケ月の七月二八日に、原告美穂の眼底に瘢痕病変が認められたということは、それ以前に眼底周辺部に何らかの活動期病変が存在したことになる。当時八幡病院では直像鏡で眼底検査が行われていたが、直像鏡では未熟児の眼底周辺部を詳細に観察することは極めて困難であることなどから、五、六ケ月以前に周辺部に何らかの病変があり、しだいに瘢痕化し、その影響が眼底後極部までに及び、そこで初めて直像鏡で確認されるようになつた可能性が大である。」との記載があること、⑦本症Ⅱ型は、網膜血管が耳側のみでなく鼻側においても発達途上にあるような著しく未発達な網膜血管を有する生下時体重一、一〇〇グラム以下の極小低出生体重児に極めて多くみられるもので、植村医師らの自験例では、その約半数が生下時体重九〇〇グラム以下であり、一、五〇〇グラム以上の未熟児にはみられなかつたことからして、生下時体重一、六七〇グラムもある美穂に本症Ⅱ型が発症することはあまり考えられないこと、⑧植村医師も、生後三ケ月まで眼底が正常であれば一応RLFの危険はないと述べていること、⑨美穂の眼底に六月一三日、同月二七日ころまで異常がなかつたとすれば、生後四、五ケ月を経過しているから特別の事情がない以上その時点では網膜血管は完成していると考えられ、七月一一日に至り始めて本症の活動期病変が発生するとは到底考えられないこと、⑩永田医師は、光凝固を行つた時点においても、後極部のみをみれば、網膜中心静脈の充血以外はほぼ正常に近い眼底所見を呈しており、網膜症の実態を理解せず、簡単に検査をすれば看過される危険性が大きいと述べていること等を総合して判断すれば、美穂の本症の活動期病変は、瘢痕期と認められた七月二八日より相当以前において発症していたものであるのに、原医師は四月四日、同月一一日、五月九日、六月一三日、同月二七日の各眼底検査を実施していないか、あるいは実施したとしても直像鏡による不充分な検眼であつたため、活動期病変を発見できず、右病変が瘢痕期まで進行し後極部分に障害が及んできたのちである七月一一日、同月二五日に至り、ようやく直像鏡により右瘢痕期の病変に気づいたもの(従つて同医師がその病変を活動期ⅡないしⅢ期であると診断したのは誤診である)と認めるのが相当である。

四、原医師の過失

① 原医師の過失は、一審判決の認定したとおり「原医師が総合病院の眼科医として昭和四七年四月当時修得すべきであつた本症に関する平均的知識の内容は前記……の①ないし④掲記の程度のものと考えられるが、証人原駿の証言によれば、原医師は当時、今井医師から原告美穂が在胎三一週の未熟児であつたことの連絡を受けているにも拘らず、かかる未熟児に本症が発生し重症化しやすい傾向があることを認識せず、その眼底検査の方法についても本症を早期に発見するためには倒像検眼鏡が絶対不可欠であることを充分に認識していなかつたものと認められるので、原医師には総合病院において未熟児保育医療に携わる眼科医の有すべき平均的知識に欠けるところがあつたものといわざるをえず、特に倒像検眼鏡の必要性についての知識が不充分であつたことは重大でありこのことが、ひいては前記の如き不充分な検眼につながつたものと考えられ、充分な眼底検査義務を怠つた過失があるものというべきである」。

② 原審は「当時の眼科医界においては、本症に特別の関心のある極く少数の臨床医学研究者、眼科医のみが、自発的に修練を積み本症の診断に必要な技術を修得するという状態であつて、未熟児の眼底検査につき特に修練と経験を積んだ一般臨床眼科医は皆無に等しかつた。したがつて、昭和四七年一月当時においては、未熟児の眼底検査を行う訓練を受けていない眼科医としては、直像鏡による検査を行つていたことはやむをえないものであつた」とするが、これは、原医師が美穂の眼底の所見を実際に把握した前提の上で、①直像鏡による検査の為、異常を発見しえなかつたとか、②診断基準に精通していなかつたため適格な診断ができなかつたとかいう場合には妥当の余地があつても、もともと所見の把握自体が全くされていない場合は前提を誤つた的はずれの議論というほかはない。

特に、「未熟児を診療する医師は、患者本人からの愁訴を欠くうえ抵抗力が弱く症状の急変をみやすいものであるから、綿密な諸検査、診察を行つて客観的症状の把握に努めるべき」であるから(前記大阪地裁判決)眼底検査を依頼されながら実施しないことは、本来の債務を果さないことであり、それ自体過失を構成するというべきである。

③ 原医師は、本症にとつて光凝固が有効な治療方法であることは充分知つていた。そして、右装置は九大病院と被上告人市立小倉病院に設備され、五月以降は右小倉病院においても未熟児に対する治療が開始されていたことも知つていた。それ故、原医師は異常に気がついてから小倉病院に転送している。しかも、小倉病院には倒像検眼鏡もあつたのである。

原医師が、上告人美穂を少なくとも眼底検査のため市立小倉病院に転送させることは、きわめて容易であつたというべきである。

上告人美穂にとつても健康上、地域の制約、そして経済上も転医に応じられない事情は全くなかつたのである。

原医師は、直像鏡によつて眼底検査が充分に実行できなかつた以上、被上告人市立小倉病院もしくは九大病院に転送すべき義務を怠つたといわざるをえない。

④ また、原医師は、眼底の異常の判断が自分では困難であることを知りもしくは知りえた以上、少なくとも患者側に対し、医師法二三条等による説明・指導義務を果し、上告人らに市立小倉病院もしくは九大病院での診療をすすめるべきである。

以上のとおり、原医師は、本症が失明を招く重大な疾病であることを知つていたにも拘わらず、慢然と、眼底検査実施の義務を怠り的確な診断と処置を怠り、転医の処置を怠り余つさえ医師法二三条等の説明・指導義務を怠つた過失がある。

五、小結

以上のとおり、原判決は、原医師の過失判断について、民法七〇九条の求める医療行為の過失の判断構造の認定において法令に違反する誤りがあり、過失内容(修得すべき知識、実施された医療行為事実等)について採証法則に違背し理由の不備ないし齟齬があり破棄を免れないものである。

第三点 今井医師の過失に関する判断についての法令違反、審理不尽および理由の不備ないし齟齬

一、原判決の論旨と問題点

原判決は、今井の過失について、ただ「美穂について本症の発症の発見ならびに転医が遅れ、光凝固治療の適期を失したことは、当時の医療水準に照らしやむをえなかつたものといわざるをえず、この点に関し今井医師及び原医師に注意義務の懈怠があつたということはできない」と述べて過失を否定しているのである。

今井医師は、美穂が未熟児であるが故に、本症を含めた眼科的疾患の有無を自己の専門外である為に原医師に依頼したのである。従つて、そこには、原医師に対する依頼のみに終らないその結果に対する責任がある。今井医師は眼底検査の結論を知りはじめて眼科医に依頼した目的を達成すると同時に自己の患児である美穂に対する医療行為を尽したことになるからである。原判決は、この点を全く看過している。

二、今井医師の知識と原医師依頼の目的

小児科医今井は、昭和四四年長崎大学院に入学後、一貫して小児科部門を専門とし(一審第五回同証言一〜二、二五四項)、昭和四六年六月より八幡病院に小児科医として勤務してきた。同人は小児科関係の各専門誌等を閲読し(同証言二八一〜二八三、第六回同証言二一項)、各種学会に出席して(第五回同証言七七項)、本症が低濃度で発生することも、酸素を供給しなくても発生することを知つており(同証言三〇〇〜三〇一項)、本症についての転医先も被上告人経営の市立小倉病院と九大病院であることも知つていたのであるから、本症に関する医学的知識を充分備えていた、もしくは備え得た状況であつた。

このような知識があつたからこそ、八幡病院に勤務してからは、本症発見の為、原医師に眼底検査を依頼し、未熟児の医療行為につき万全を期していたのである。

原判決は、右の如き今井医師の医療実態を全く判断基底においていない。

三、今井医師の過失

(一) 今井医師は既に述べたように、本症については充分の知識を有し、眼底検査の必要性を認識していた。そして、現実に、昭和四六年から眼科医原の協力を得て、眼底検査を実施せしめていたのである。

ところが、

① 定期的に眼底検査をすべきにも拘わらず、同人自身の判断で未熟児個々的に眼科受診を決定し、

② 四月四日、一一日、五月九日と眼科を受診させ、眼科医からの異常の有無の返事が一切なかつたにも拘らず、確認することを全くしなかつた。

未熟児の全身管理が小児科医に委ねられている以上、今井医師は、「異常なし」という回答があればともかく、全く応答がないのであるから眼底検査を実施したのか否か、異常の有無については確認し、自己の実施していた医療行為の義務を果すべきである。

今井医師が、本症の知見をもち、その為に不可欠な眼科の協力をとりつけていた以上、右検査結果の確認の注意義務は当然存在するといわねばならない。

しかも、五月一五日退院の際に、眼科に対し紹介状を出しているが、これは、眼科の検査がなされていない重大なことを認識したからにほかならない。

(二) 退院にあたつても眼底検査の結果は今井医師にも明らかにされていなかつたのであるから、早急に眼底検査をすべき重要性については、上告人らに対し、医師法二三条、健康保険法等にもとづく保険医療機関および保険医療養担当規則一三条、一一条によつて義務づけられた本症についての説明及び指導の義務を尽すべきであつたといわざるを得ない。

今井医師の定期的眼底検査の義務および説明指導義務を怠つた過失は重大である。

四、小結

以上のとおりであるから、原判決については、今井医師の過失認定にあたつてはその医療行為と注意義務について民法七〇九条の法令に違反した上、判断を遺脱した審理不尽が存し、且つ過失認定にあたつては採証法則に違背し理由の不備および齟齬があり破棄を免れない。

別表

未熟児網膜症の判例について

生年月日

判決月日・裁判所・掲載誌

認容

要点

1

S42.4.6

S49.6.26長崎地判

判時748.29

×

昭和四二年当時、酸素療法に際して本症を予見しうべき義務はない。同様に定期的眼底検査の義務もない。

S52.5.17福岡高判

判時860.22

×

S54.11.13最三判

判時952.49

×

2

S42.8.17

S51.5.12大阪地判

判時816.21

×

酸素供給上の過失否定。眼底検査について本件当時、光凝固法等と結びついていないことを理由に注意義務の内容になつていないと認定

S55.9.25大阪高判

判時993.60

×

本件当時は、僅かな限られた先進的医師を擁する一部病院のほかは眼科的管理を実施するまでの医療水準には達していなかつた。

3

S44.4.5

S53.2.9福岡地小倉支部

判時873.31

判タ364.141

×

我が国で一流と目される診療機関が眼底検査の実施に着手したのは昭和四五年以降、九大附属病院においても然りであると認定し、眼底検査の義務を否定

その前提として、医師の研鑚義務の成立は、新知識が医療界に受容され普及して行く時点―一流の診療機関が実施に着手しはじめた時期に求めるべきであるとする。

S55.5.28福岡高判

判タ423.140

×

4

S44.6.13

S55.10.3名古屋地判

判タ438.129

×

本件当時、本症についての眼底検査等の義務はない。

5

S44.9.22

S53.4.20浦和地判

判タ364.141

×

酸素供給上の過失否定。本件当時、眠底検査は本症の予防治療と結びついたものではない。

6

S44.12.22

S49.3.25岐阜地判

判時738.39

眼底検査の懈怠による早期発見の遅れと誤診による過失

医師法二三条による説明指導上の過失

光凝固治療を目的とする転医の遅れによる過失等を認定

S54.9.21名高判

判時942.21

×

本件当時、光凝固法はいわば研究が緒についた段階にすぎぬとして右過失を否定

S57.3.30最三判

判時1039.66

×

右同

7

S45.2.11

S53.3.27那覇地判

判時908.82

×

酸素供給上の過失否定

本件当時、定期的眼底検査は、眼科界に一般的に承認され実施されるまでには至つていなかつた。また、罹患していること、もしくは予見できない本症については療養上の指導義務もない。

8

S45.10.9

S52.6.14静岡地判

判時860.22

×

酸素供給上の過失否定

小児科医に対し、本件当時定期的眼底検査義務を負わすことはできない。従つて、説明義務もない。

9

S45.10.26

×

10

S45.10.27

S53.3.31高松地丸亀支判

判時908.82

×

本件当時、本症につき知見がなかつたからといつて注意義務には違反しない。

Ⅱ型ないし混合型であり本症の診療上の過失はない。

11

S45.12.27

S56.9.18大阪地判

判タ454.142

×

12

S46.1.10

右8・9に同じ

×

右8・9に同じ

13

S46.2.4

S55.6.25名地判

判時993.79

×

本症の有効な治療法である光凝固法との結合性に基づく定期的眼底検査が、全国的に定着したのは、昭和四七・八年以降であり、担当産科医が眼底検査の必要性を名鉄病院田辺医師から説明されたのは昭和四七年として検査義務否定

14

S46.2.19

S52.3.31浦和地判

判時846.24

昭和四六年には、全国の国立病院の三分の二はすでに未熟児の眼底検査を行うための協力体制ができており、現に埼玉県下においても被告病院と同規模の二つの病院において眼底検査が行われていたから、本症の予見義務があると認定

15

S46.7.6

S55.3.27高松地判

判時975.84

本症発生の有無確認のため眼底検査を必要とすることを認識すべき義務があるが地域的制約上、実施までの義務はなく、説明の義務がある。

16

S46.9.28

S54.1.19釧路地網走支判

判時924.92

酸素投与上の過失を認定

担当医師が、僻地の病院にあつて多忙な産科医のかたわら未熟児保育にあたつていた制約から光凝固法の知見を有すべきとはいわれない。

17

S47.3.6

S54.3.28神戸地判

判時938.98

本症当時、本症の治療方法としての光凝固法の有効性は多数の追試を経て実証されていた。定期的眼底検査の実施により本症を早期に発見して適期に光凝固術施行すれば、本症は、ほぼ確実に治癒させることができた。定期的眼底検査を怠れば過失になる。

18

S47.9.1

S56.6.12神戸地尼崎支判

判時1013.96

医師の説明義務違反を認定

19

S48.2.9

8・9と同じ

本件当時は、定期的眼底検査義務、説明義務ありと認定

20

S48.6.15

S56.10.29大阪地判

判時1039.89

×

Ⅱ型ないし混合型であり診療上の義務はない。

21

S49.3.9

S55.9.1福岡地小倉支部

判時993.79

×

患者がⅡ型であるとして過失を否定

22

S51.2.8

S55.12.20大阪地判

判タ429.72

眼底検査、眼医義務、光凝固実施義務違反を認定

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